<ECLIPSE>

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世界は何でできているんだろう
グッドテイストという言葉には抵抗を感じる
かっこいいとか、よく分からないのかもしれない
皮膜は少しづつ剥かれて(環境依存文字?)
だけどまだ触れることができないでいる
何もかも体験しないうちに人生は終わってしまうのかなあ
いつも相変わらず、知らないことが多くて
怠け者 人が何を好きかなんて
どうでもいいことなのかもしれない
私が誰を悲しませたかなんて
どうでもいいことなのかもしれない
どうしてますますつまらなくなっているように感じるのか
命は磨り減っていく
燃えている人にはたまにしか会わない
何かが分かってしまうことほど退屈なことはない
扉は壁だったのか 壁は扉だったのだろうか
哲学の普遍性?純粋な学問?
彼らがどこにいるのかわからないのだ
何を言うべきなのかも 何かを期待されているのかすら
伝えたいことがあるのかすら
なぜ無駄な議論をやめてしまうんだろう
誰か なまの 面白い話をしようよ






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| 未分類 | 10:18 | トラックバック:0コメント:2
人間は滑稽だ。いや、滑稽にしてしまわなければならない。あたたかいご飯と寝床が保証されている生活にさえ、不快な影はひっそりと足をのばす。人と人のあいだで起こる、ばかばかしい出来事。誰も幸せにしないような言葉や行為が、その根を絶つことはないのか。心がささくれて涙が出そうになるとき、食い潰されてしまいそうな憎しみのやってくるのを感じるとき、そして歯をくいしばって体の痛みにさえ耐えるとき、いつも思うこと。

私の悲しみは、私のものだけではない。
私の今感じている痛みは、私のものだけではない。
きっと幾度となく繰り返されてきた遺産的感情の中に、私はいる。

それは決してまったく同じというわけではないが、同じような苦しみを経験したひとはたくさんあっただろう。悲しみも、痛みも、苦しみも、私が生まれる前からすでにあった。そして、私が世界にいなくなったあとも、同じような苦しみを経験するひとはやはりあるだろう。彼らの名は知らない。触れ合うどころか、言葉を交わすことも、視線を交わすことも叶わない人である。しかし私は彼らの泳いだプールを泳いでいる。人間の悲しさを引き継いでいる。彼らを感じることによってのみ、私は安らかな眠りに落ちることができる。私は悲しみの相続人であり、遺産を弔おうとする者である。















| 未分類 | 12:20 | トラックバック:1コメント:0
誰かに何かを伝えるために正確な言葉をつむぎたいという欲望が私にあるのかどうか、それを考えていた。コニュミケーションはある程度、予測されたやり取りの上に成り立っている。何かを読んで理解できるということや話を聞いて打ち解けたと思うことは、ある特定のフォーマットによって可能なのだ。ルールを逸脱しすぎれば、理解されない可能性が大きい。誰かが言っていたような、「斬新さというものも、使い古されたフォーマットや常識のうちから完全に外れては理解されない」というやつだ。例えば同時代の常識や理解の範囲を完全に超えるもの、それは神か、または異端・狂気、変質などの領域へ排除される。いや、排除された事実を認識されるのならまだ良くて、それにすら気がつかれず、まったく感知もされないまま異次元へ吹っ飛ばされている、そういうことが頻繁に起きているように思う。音も風も立てず、痕跡も残さず、誰にも知られずに。取りこぼしたものは、回収可能なのだろうか。

何かが私に何かを書かせるということと、私が何かを書くということ。誰かが私に何かをしゃべらせるということと、私が何かをしゃべるということ。(そして同時に、私が誰かに何かを書くことやしゃべることを期待するということ。)一見きしみの見当たらない生活で、饒舌な自分を意識しつつ、言葉がオートメーション化されていくという気持ち悪さ。私は時々、期待されていることを話させられ、期待されていることを書かされていることに気づく。期待している主体は誰なのか、それは知らない。もちろん、レールに従うように流れる会話をすることや、共有されて(いると思われる)形式や言葉の配列で書くことは大切なことなのだ。コミュニケーションということについて言えば、内容よりも形式的やり取りがコミュニケーションの意味そのものであるときもある。でも、本当に思っていることや感じていることと実際に口にしている言葉が違うと、だんだん、エネルギーを吸い取られるように、言葉が衰弱していくような気がする。そしてことばの衰弱は、存在を衰弱させる。そんな状態が続くうちに、いったいどの言葉とどの衝動やどの停止が、自分にとってセットになっていたのかが、分からなくなってしまうのだ。いや、そんなセットはもとから無いのかも知れないし、予め用意されていてしかるべきものなのかもしれない。でも、既存の言い草を、本当にそれが言いたかったことなのかどうかを確かめることなく真似てしまうことや、あたかもそれが自分から発せられた言葉のようにふるまってしまうことは、確実に言葉の貧困を招いていく。だからそういう状況にある自分に気がついたときは、本当は何が言いたかったのか、何を言うべきだったのか、何を書きたかったのかなど、そのとき失われてしまった言葉を顧みることが必要ではないだろうか。そういう見直しの作業は、言葉を超えて、人生そのものを見直したり考え直したりしていくことになるはずだ。

本当はそうじゃないと思っていることが、口から出てしまうことがあるのだ。否定したかったことを肯定してしまったり、その逆であったり、社会でよく言われていることを繰り返して、知っているふうでいい気になったり。それは嘘じゃないし、たぶん嘘じゃないということが言ったあとすぐに分かるようなものだ。でも、それは本当じゃないということが、それにもまして分かっているようなものだと思う。そういう自分の言葉に対する違和感をひとつひとつ確かめていくのは大変な作業だ。でも私には、確かめていく必要がある。そしてそれが本当かどうかを確かめる基準は最終的に、私の存在そのものでしかあり得ないのだと思う。














| 未分類 | 05:19 | トラックバック:0コメント:0
閉塞感はなんの前触れもなくやってくる。

パソコンに繋がれて一日を過ごす。ただただ音と映像を脳内に流し込む。頭が正常にまわらないのは、たぶんホルモンのせいじゃない。いつものように、そうだったらいいのにと思うのに。恋を煩うのにさえ、ロマンチックな歌が必要なのだ。共感するようなふりをして、なんかその場しのぎの感情を楽しむ。ドラマの主人公にでもなったつもりで、自分を嘆いてみたりする。ほとんどすべてがこの調子だ。わたしの中にありもしなかったものがぼんやりと存在するようになり、やがてちゃっかり居座ってしまう。

理想と現実のハザマ。25にもなってはじめてその言葉がわかり始めたような気がする。それでも一体何を欲しがっているのか、何を待っているのか、そしてその希望や欲望が、果たしてほんとうに自分のものなのかが分からない。巻き込まれている時代の外にある思考、このシステムの出口なんてものは存在しないのだろう。きっと、ここを、いまを生き貫くしかないのだ。それでも求めてしまう。この時代にまみれた「私」でないもの、この世界の外側にあるもの。そんなものは、どこにもないんだ。

例えば人間が何の神話も信仰も持たなくなるとは、どういうことだろう。信じるか信じないか、そのような問答自体からも抜け出てしまうということは、どういうことだろう。ひとりの人間は些細なことで死に、その先には何もない。わたしたちはもうとっくに、記憶の在り処を引き渡してしまっているし、不平等は現前としてあり、そして恐らく、延々と引き継がれていくのだろう。神の救いは訪れない。千年王国も歴史の終わりも、来るべき時はない。逆説的だが、終わりがないこということこそ、きっと最も恐れられていることなのではないだろうか。人々は永遠を希求し、そして終末を待ちわびる。何かの終わり、何もかもが終わるとき、それは、今やどうすることもできない(ように少なくとも個人には思える)システムの出口である。しかしそんなものは、存在しない。

ただ生きるしかないのだ。この時代を、世界を、生き延びるしかない。くだらないとか、つまらないとか思っていることのほとんどが、それ以外には何もないような、現実なのだから。それは実際にまぎれもなく、起きていることである。そして私は、すでにそれを生きてしまっている。そしてこれからどう生きていくべきなのかを考えるときには、設問の段階をひとつ、下げなければならないのだと思う。それはすべての疑問文の前に、「この時代で」と付け加えることかもしれない。















| 未分類 | 09:43 | トラックバック:0コメント:0
言葉は奪われている。ことばは、私たちに与えられてはいないのだ。歩くことと同じようにまるで自然に話すことを学んだが、それはいつも決して私のものにはならなかった。それは所与の人間のしるしでも、淘汰によって変化していくものでも、有用なコミュニケーション手段でもない。そうである以前に、それは私たちから奪われている。容易く失われるもの。独自の形態であるもの。気がつかないうちにひどく損なわれるもの。言葉はいま、恐ろしいものとして私に対面する。私はそれによっていま、私の死んだ瞬間を刻み込んでいく。書くこととが時間を紡いでいく。

もう一度、いや、はじめて、言葉と真剣に向き合わなければならないと思う。それはたぶん、私の中で意図的に引き延ばされてきたものだから。誰かに伝わることに甘えて生きてきた。何かを書ける状態が当たり前だと思って書いてきた。でもきっとそうじゃなかった。言葉は自然にどうにかなるものではない。今までほんとうに読んだり書いたりしたことが、果たしてあったのか。言葉だったのか、音楽だったのか。それぞれの言葉でつくられた世界、モノ、あるもの、ないもの、エネルギー、響き、手ざわり、自分のフィルターで感じてみる必要がある。そうしたら私に何ができるのか、少しは分かるかもしれない。




























| 未分類 | 05:07 | トラックバック:0コメント:0
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PROFILE

☆
☆Author: 久美子
生まれ変わるなら、星か鳥になりたいと思う。
地上に「愛」が存在するならば、すべてを愛し、すべてに愛されたい。
命の灯をともして、日食の闇に、うごめく。



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