<ECLIPSE>

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Dramaticな人生―開幕



開演5分前― まもなくの始まりを知らせるチャイムが鳴り、みな足早に自席に戻る。ロビーには人気がなくなり、熱に浮き、凝縮された期待が客席内に漂う。扉はすでに閉じられ、もう別世界に移る準備は万端だ。これから休憩を覗き2時間程の間、人々は日常を離れ、短い夢現に誘われる。そんな予感のせいもあってだろうか。その日の主役が登場するまで、劇場内は心地よい緊張に包まれる。客席内のライトが落ち、ざわついていた空気がしん、と静まり返るほんの一瞬。― そして幕が開き、空気は拍手で満たされる

私の一番好きな時間帯は、この開演5分前から開演までの短い時間だ。私は何年か劇場でアルバイトをしている。劇場のバイトと言っても何をしているのかと聞かれることが多いけれど、レセプショニストといって、来場されたお客様に席案内をするのが主な仕事だ。その他公演中のお客様へのサービス全般を受け持つ。例えばカフェカウンターでの飲食の販売に当たることもあれば、クローク、オペラグラスの貸し出し業務などもある。あと、劇場内のアナウンスもする。

このバイトをしていていると、本当にいろんな人に会う。私の所属している劇場は、オペラをはじめとするクラシック公演、バレエやフラメンコなどのダンス系、海外の民族音楽・舞踊、歌舞伎、それに歌手のライブやコンサートなど様々な公演が催されるので、お客様もそれに合わせて変わる。それに、趣味はそれぞれ違うから。実は、接客をしていて、ちょっと「おいおい」と思うようなときもある。これはどんな職業でも人と関わる仕事について回ることだろう。例えば、禁止されていることをしてしまう人とか、常識としてマナー違反を犯している人とか。そういう時は、こちらとして困るというよりも、他のお客様のご迷惑になるので止めていただくようにお願いする。これは正直言ってあんまり気持ちのいい仕事じゃない。知っているにしても知らないにしても言われる側にしてみたら嫌だろうし・・・時々へこむこともある 笑。だけどそんなマイナスなテンションも、ちゃんと回復するのだ。なぜなら、公演が始まって、本当に楽しそうに一緒に歌を口ずさむ人とか、目を閉じて、微笑みを浮かべて音楽に聞き入るひととか、嬉しそうに帰っていくお客様を見ると、とても暖かいなあと思って元気になるのだ。

劇場は、よく「非現実・非日常」を演出するところだと言われる。私たちレセプショニストも、それを盛り立てるように誠実な対応を心がけている。確かに舞台では、多くの非現実・非日常が演出される。その場、そのときにしか見られない一回限りの公演の熱が、舞台から客席に飛び出していく。どんな公演もドラマやCDと違ってやり直しがきかないから、リハーサルを含めその舞台裏ではいろいろな準備が入念になされる。アナウンスに入ると舞台袖にいるため舞台裏の様子が分かるのだが、私はそれがとても好きだ。日常生活を離れた世界を演出する舞台役者も、彼にとってはそれが日常であったりする。スポットライトの当たる舞台のすぐ横では、とっても大忙しな現実が繰り広げられていたりする。だけどそこには一種の緊張感が常に漂っていて、あの高揚した表舞台の裏にあるなんとも言えないひんやりとした空気が― 支配している。

「これは、人生そのものだ」― 袖にいるといつもそう思う。とっかえひっかえ出て行く出演者たち、スポットライトを浴びて、確かに彼らはその役のひとそのものだ。たぶん、オーケストラで演奏するような人たちでさえ舞台上では何かを装っている。暗い舞台袖に引っ込み、呼吸を整えたりして少し休む。大勢の観客の目から逃れて―。そしてそれを支えるひとたちがたくさんいる。舞台美術、衣装、照明、音響に関わるひとなど。

舞台上で台詞を忘れたり、役柄を忘れて素になってしまったり、台本にない不測の事態が起こったとしたらどうだろう。それを考えるだけでも緊張し、恐ろしいと思うひともいるのではないだろうか。実際、そんな困った変則的な出来事に落ち着いて対応し(つまりアドリブなどで)、その場の偶発性や即興性を楽しみに変えてしまえるのは、よほど舞台慣れした人間か― またはそういう生き方を知っているひとであると思う。ちょっとした変更や大きな危機にも屈せず、自分でストーリーを作り変え、編集し、それを楽しみに変えてしまえる人間。そういう人間にとっては、表舞台も裏舞台も、最高の場所になるだろう。

今は、自分に与えられた役柄が分からないまま舞台に押し出されて、焦る心で立ち尽くしている人も、スポットライトを浴びてできた自分の影を見つめるばかりで観客に背を向けているひとも、いつでも、創り出すことができる。もし自分が誰かにあてがわれた役が気に入らないのなら、壊せばいい。ひとり何役だって演じることもできる。自由に創れるのだ。ただ、それではずっと何かを演じていることしかできないのか?本当の自分は一体なんなんだろう?そう思うかも知れない。そう言われたら、私はこう答えたい。どんなに多くの役柄を演じていても、それを演じているのは、ひとりの人間なんだ、と。

開演5分前― もうすぐ幕が開く。




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ユートピア1



Utopia―この言葉を聞いて、人は何を感じるのだろう。私はもう4年生なので、卒論に取り組んでいる。テーマはユートピアだ。今日はそのことについて、少し書き記しておこうと思う。

ユートピアとは、もともとSir Thomas Moreの造語で、「どこにも無いところ」というのが大元の意味である。彼の『ユートピア』を基点として、様々なユートピア像が描かれ、またそれに対するアンチ・ユートピアというものも多く産出されてきた。モアのこの作品以前にも、多くの人々が理想の国家、理想郷といったものを書き記してきたし、また私の考えでは民話や神話、また宗教の経典にあらわされる世界もユートピアの最たるものであると思う。つまり、天国、浄土、といったようなものから、地下や森の奥にある異世界、日本では「浦島太郎」の竜宮城まで。

ユートピアは人間の営みに大きな影響を及ぼしてきたと思う。そして、ユートピアを実現しようという試みが様々に成されてきた。しかし時に「人間の理想」と銘打たれた限定的なユートピア像によって、人々が扇動され、多くの惨劇を招いてきたことも事実である。そのため、現代においてユートピアは純粋な意味で「理想的な」と称されるようなものではなく、負のイメージを抱え込んでいる。

世界の状態は、まさに今ユートピアを喪失している。勿論、現実を見失ない、悲劇の再来を招くようなユートピア像の蔓延は防がねばならず、人道的(?)な視点から見れば共通の目標を持って―世界平和とか、貧困撲滅とか―そういう方向に向かっていることは事実だろう。しかし、事実と真実は違う。民主主義、資本主義、この二つの柱に支えられた屋根の下で、生きている。陣取り合戦、快適な暮らしのための闘いが繰り広げられる。あらゆるものの資源化、当たり前のように身近にあったもの、それが価値を持ったとたんに奪い合いが始まり、あらゆる価値は相対化される。

相対化された世界で、人々は「絶対」という言葉を使えなくなる。または「絶対」という言葉がぺろりと喰われてしまうような世界。どちらに進んだらいいか分からず、「出し尽くされた」観のある要素をとっかえひっかえ組み合わせてみては、それを「新しい」ものとして提示することに熱中する。また、それらの要素を統合する人間でさえ結局は要素の組み合わせ(遺伝子を考えれば分かる)であり、何者もこの相対化から逃れることができない。―人々が「自分の価値」に疑問を持つとき、それは比較という、物事を相対化する行為から生じるのだ。つまり、現代におけるあらゆるものは、常に疑問視される。

そして、偽りの「自由」がそれを助長する。

「今は、生きていける意味がなくても生きていける時代になったんじゃないですか。」それは事実だろう。そう、その言葉どおり、生きていけるだけだ。生きられるとか、生きられないとか、そういうことではない。「生きる」ことに集中しなければならない。―「生きる」ことに、集中する。  

つづく
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氷点下の哲学
憂鬱の深淵にて、産み落とされる不屈の魂
肉の塊より重く、軽やかなるもの

克服されるべきは―否定の影に潜む憧れ

氷のように冷たいこころで
すべて焼き尽くしてやる


| 未分類 | 03:02 | トラックバック:0コメント:0
花は、春の来るのを疑わない
この世で一番難しいことは、「信じる」ことだと痛感したのはいつの日のことだったろう。信じていても叶わないことや、どうにもならないことがあるのを知った時だったろうか。それとも、誰か信頼していた人に裏切られたと感じたときだったろうか。それもあっただろう。けれど、そのどちらでもない、本当はもっと違う何かを信じられずにいたのではないだろうかと思う。

信じることは、一瞬の思考や約束の言葉ではなくて、行いである。一貫した継続的な行い―信じようとするのでなく、信じまいとするのでもなく、憧れを抱きつつ、変わらぬ日々のことごとを、立派にやりとげること。特別な言葉を綴ろうとせず、平易な言葉で語ること。自らの弱さを押し付けずに、狭間で耐え抜くこと。すべてのものの幸せを、祈ること―忍耐のいる、しかしとても美しい行為だと思う。なぜなら、信じることなしに生きてはいられないと思うから。

咲き誇る花を見ると、その率直さと素直さに心打たれる。太陽に向かって真っすぐに伸びる向日葵。春を待って、頑なにつぼみを閉ざす桜。生き物が、まっすぐ光に向かっていく姿は、なんて清々しいのだろう。彼らはただ、風に吹かれて、雨を浴び、光を求め、散っていく。そこには、疑う余地のない厳格な美しさ、強く朗らかな命がある。彼らがその様に美しいのはきっと、信じること、深く信じることに由来しているのではないだろうか。私は以前、春になるといつも息苦しくて仕方がなかった。春という季節はすべてがみずみずしくて、あまりにも輝きすぎていて、圧倒的ないい香りと美しさに耐えられなかったのだ。でもその濃縮された空気は、人間と比べて悲しいほどに、彼らが信じるものたちだからなのだと思う。

何かを信じようとするとき、人は既に疑っている。彼らのように真っすぐ生きることは確かに難しい。けれど、不完全で十分なのだと思う。信じようとして信じるのも、ほんの少し疑ってしまうのも。人間と人間が付き合うと些細なことから猜疑心が生じる。それで、騙されないように、人を欺いてみたり、傷つくのが恐いから、どこかで自分をセーブしたりする。それは、悲しいかな、つまるところ利害を意識しての行為なのだろう。競争や駆け引き、損得勘定をすることが悪だとか言うつもりはない。けれど、もし「信じられない」ことで、弱気になって悲観的になって、歪んでしまっているひとがいたら、私はその人を深く信じようと思う。人間の不完全な心でもって。

疑って自らを貶めるよりも、信じて虚偽に殺されることを願う。

真の虚偽は真だから、時にひとを破壊しさえする。
けれどこれを怠れば歪んでしまう―


それで、紆余曲折しながら、真っすぐ生きる
| 未分類 | 01:38 | トラックバック:0コメント:0
私には、十代に失った愛しいひとがいる。彼のことをとても好きで、高校のときはそれこそ毎晩深夜まで電話を掛け合った。明日学校で会えると知っていても、まるで時間を惜しむかのようにふたりで過ごした。別れ際の下手な私だから、もちろん彼のときもそうだったけど、大学に合格して、二十歳になって、お酒でも飲みながらなんでも話せる仲になると楽しみにしていたのに・・・彼は成人式の十日前、急病で亡くなった。寒い冬の日に、電話でそれを聞いたときこみ上げてきたものを、今でも忘れることができない。心と体の、奥底から突き上げるような嗚咽。

それからしばらく、世界の秩序が完全に崩壊した。日が昇ったり、沈んだり、それまで当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなくなった。昼と夜が、どうして今日も私に訪れるのか、毎日それを考えた。私だけ年をとって行くことが許せなかった。ひとはきっと、愛してくれる人を失くすより、愛する人を失う痛みのほうが強いのだ。そう悟った。しばらくして、私は彼を羨ましいと思うようになった。こんなことを言ったら、お母さんに怒られてしまうだろう。けれど、とてもきれいなままでひとり行ってしまった彼を、ずるいとさえ思ったのだ。

私は以前から、人間の当然の営みとして育まれる日々の生活が、果たして自分に続けていけるのかどうか、疑問に思っていた。皆(この言葉は怪しいけど)がしていることを、私はできない。一体いくつまで私は生きるんだろう、50年でも長すぎると。神様が死んだ日、同じことを思った。いつになったら、彼に会えるんだろう?けれど、自分が決して自殺などできないことはわかっている。死んではいけない、お前に自らを殺す権利はないと、あらゆる価値観を崩してみても、その声は反響し続ける。それは誰の声だろう?

どうやって生きていけばいいか分からなくなる夜は、彼のことが心に浮かぶ。今でも、本当にいないんだろうかと思ったりする。彼が教えてくれた"Tears in Heaven"は今でも弾けるし、ハードカバーの赤と緑の『ノルウェイの森』も本棚にあるのに。私は致命的な欠落を抱えて、どちらにも行けずうずくまっている。だけど、生きるしかない。しかも、できるだけ幸せに。ひとりで立って、孤独を友に、卑屈になることなく、生き抜く。これができたら、私は私の幸せを花束にして、彼に届けよう。そして、しわくちゃのおばあちゃんになって、招待状が来たら、おいしい日本酒でも持って、彼を訪ねよう。

毎朝ポストを見てみても、まだその手紙が届く気配はない。それはきっと、今日も一日生き抜けという、彼からのメッセージなんだ。
| 未分類 | 04:10 | トラックバック:0コメント:2
矛盾と隣り合わせの愛
きれいな言葉だけを贈り、自分はあなたに共感できて、いい人間なんだと言うひとがいる。それに応えて、心から感謝の気持ちを述べ、下手に出るひとがいる。そんなひとたちに深い憎しみを抱きながら、同時に愛してしまう。私はきっと、そういう暖かいもののやりとりに憧れているのだ。たとえそれが、塗り固められた嘘や、傲慢と思い込みの上に築かれていようとも。素直なひとたちはいつだって無罪になる。そういう人間に、嫉妬し、絶望し、自分の中にはびこる矛盾をどうかしようとしているんだろう。あのオレンジ色の愛しい光の環を、強く欲していながら何もせず、ただ孤独であることを望みながら。

そうやって、自分を慰めようとするしょうもない人間。家庭教師先の生徒たちに、「私も先生みたいになりたい」と言われて、真面目に強く否定した。本当にこんな風になっては欲しくない、とお願いしたいくらいの気持ちだった。人間として、女性として、友人として、恋人として―何ひとつ満足にできない自分の虚しさに、手をこまねいている。親しくなれば離れたくなり、離れれば近づきたくなる。中途半端な壊滅状態の狭間を行ったり来たり。大切なものをちゃんと大切にしたい。けれど、その肝心のものはガラスの向こうにある。ガラス越しに空を見上げて、自由に飛ぶ鳥に憧れる猫のような・・・

| 未分類 | 23:23 | トラックバック:0コメント:0
猫と女、偽装
女性は、猫に例えられることがある。猫のような女性が好きな男性もいるだろうけど、個人的な統計ではけっこう小型犬タイプの女性が好きなひとが多いように思う。私は小型犬は嫌いだけれど。

高校のとき読んだ斉藤薫の『ちょっと過激な幸福論』には、「日本の女は、子猫になれ!」と「犬の目を真似よう」というタイトルがあって、どっちもやりたくないと思ったふしがある。でも試しにやってみたこともある。私は猫の伸びやかな肢体やしぐさ、目つきやピクピク動く愛くるしい耳、気まぐれなところまで(気まぐれなのはどうも雌猫だけじゃないかな)大好き。・・・でも、子猫にはなれなかった。犬の目も、できなかった。

何かを装うことは、時には必要だ。でも、そもそも人間関係において、何かを装っていない時が果たしてあるのかどうかすら疑問に思う。「人間は社会的な生き物である」という言葉は、「社会的」というところより、「生き物である」の方に重点があるんじゃないだろうか。カメレオンや、木の葉に見事に化ける虫たちとか、擬態・偽装。これはとても自然なことなのに、人は皆「本当の自分」を探そうとする。うまく言えないけど、本当の自分とidentityは別の問題だ。「自分探し」―使いふるされたこの言葉の救世主として表れたのは、「結局本当の自分なんてどこにもいない」。答えのない問いに答えを出そうとすると、こんな風に陳腐な一応の回答がなされる。

自己と他者の関係で言えば、他者の「視線」は自己を規定しているわけで、見られている自分と、自分が思う自分の間にできた溝にひとは苦しむのだろう。この「思う」というところが非常に重要で、一体どこまで主観や自我の範疇を認めるのかについて、西洋哲学は長い間論じてきた。だけど、Hannah Arendtの「忘却の穴」のように、人間存在の自我による継続的な証明は脆いものでしかない。明日学校に行って、友達に話しかけてもだれも返事をしてくれない。家に帰ってきて家族に話しかけてみても、まるで無視されているかのように返事がない。自分の生きた痕跡が全て抹消され、存在した証拠が何も見出せなくなるという話―こんなとき、鏡には何が映るだろう?

世の中は、忘却の穴に満ちている。

と、猫と女の話に戻ると、女の子が猫だろうと犬だろうと、全然構わないということ。人間の「ふり」なり「演戯」なり、それが「偽装」と呼ばれるものであるかどうかは問題でなくて、楽しくて朗らかでいられるのなら何だっていい。朗らかさに満たされたバランスと揺らぎ―人生にはこれが欠かせない。やりすぎたと思ったら、戻ればいい。物足りないと思ったら、足せばいい。だから、今日も私は思い切り豪華に偽装する。
| 未分類 | 15:06 | トラックバック:0コメント:0
雨垂れ
雨の音がする。台風が来ているというから、明日はきっと一日中雨ね。嬉しい。優しく雨戸を打つ雨の音に、雨が好きだったことを思い出した。

まだ幼かった頃、ぽつりぽつりと降りだした雨に両手をさし伸ばして、その濡れた手の平を顔に近づけ、母にこう言ったらしい。「ママ、お星さまのにおいがするよ。」

高校生の時も、日記にこう書いている。「雨の、はじまりと終わりの空間はきっと歪んでいる。だからこんなに静かなのよ。皆一瞬静まり返って、浄化されるのを待っている。正常な空間に曝されて熱くなってしまった身体と心を、冷やしてくれるのを待ってる。雨が降れば、人は透明にされて、そしてあらゆるものとつながれて、自分が何者であるかを理解する。そしてまた、歩き出す。」

今でも、それは変わらない。雨が降ると、雨雲にすっぽり覆われたすべてのひとも、ものも、浄化されるような気がして。雨は、悲しみや、憎しみや、消せない過去や、許されない罪さえ洗い流してくれる。だから泣きたくなるような日は決まって、「雨が降らないかなぁ」と願っていた。それに、雨の降る日は、少なくとも一人ではなかった。線を描く雨粒で、空間がつなげられていたから。そう思い始めたのは、高校からの帰り道、ずぶ濡れで自転車を引いて坂を上って、ふと電灯を見上げたときだったと思う。人工の白い光に照らされた雨粒が、絶え間なく降り続いて空間を満たしているのを見た。生ぬるい夏の雨にうたれながら、なぜか、「ああ、全部繋がってるんだ」と思った。

それ以来、後に用事の無い時は、傘をささずに帰る。懐かしい土の匂いを嗅ぎ、雨を感じながら。雨が止んで、太陽が出て、雨水が天にかえるとき、流されたいくつもの涙も天にかえる―

| 未分類 | 03:17 | トラックバック:0コメント:0
日食
日食、日蝕:月が太陽と地球との間に来て太陽光線をさえぎる現象。太陽面が月面により全部覆われる時を皆既食、太陽面が月の周りに環状にはみ出す時を金環食、月面が太陽面の一部を覆う時を部分食という。にっそく。(「広辞苑」)




終わりのない日々の日食。いつも闇にいて、私には決して光が当たらない。好きなこと、好きなもの、そんなものたちを見つけられなくなって、どれくらい経つんだろう。冗談すら通じなくなった。移行期だと言えば、移行期なんだろうな。そう、何度も旅に出て、帰ってきたのだから。一巡りしてくる度に、どこかしら誇れるものを持ち帰り、成長してきたつもりだけれど、今回は少し遠くまで行き過ぎたよう。戻ってきて、さらに「虚しい」。

Mr.Childrenの昔の歌に、「悩みや痛みなど一生消えぬものだと思えたらスーパーマン」という歌詞があった気がする。スーパーマンは、極度に孤独で、やっぱり人間じゃないんだろうな。あらゆるものの中にいて関係を断ち切れずにいながら、何にも感動できない虚しさ。悩みと痛みに耐えて超えたはいいものの、日々の小さいことや楽しいはずのことに、無反応になってしまったのね。皮肉なことに。

手に入れたものと、手に入っていないもの。―「手に入れる」という動詞も消え去って、ただやってくるものと去っていくものを見つめている。全てが「無」を通過して、私を置いて行く。よくよく考えてみれば、世の中は不条理で矛盾だらけ。それなのに、曖昧さを好まないこの性質が問題なんだ。

「笑顔」「自信」「信頼」「愛」・・・、全部置いてきちゃった。さて、どうやって呼び戻そうかしら。
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PROFILE

☆
☆Author: 久美子
生まれ変わるなら、星か鳥になりたいと思う。
地上に「愛」が存在するならば、すべてを愛し、すべてに愛されたい。
命の灯をともして、日食の闇に、うごめく。



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