<ECLIPSE>

矛盾と隣り合わせの愛 | main | 雨垂れ
スポンサーサイト
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
| スポンサー広告 | --:-- |
猫と女、偽装
女性は、猫に例えられることがある。猫のような女性が好きな男性もいるだろうけど、個人的な統計ではけっこう小型犬タイプの女性が好きなひとが多いように思う。私は小型犬は嫌いだけれど。

高校のとき読んだ斉藤薫の『ちょっと過激な幸福論』には、「日本の女は、子猫になれ!」と「犬の目を真似よう」というタイトルがあって、どっちもやりたくないと思ったふしがある。でも試しにやってみたこともある。私は猫の伸びやかな肢体やしぐさ、目つきやピクピク動く愛くるしい耳、気まぐれなところまで(気まぐれなのはどうも雌猫だけじゃないかな)大好き。・・・でも、子猫にはなれなかった。犬の目も、できなかった。

何かを装うことは、時には必要だ。でも、そもそも人間関係において、何かを装っていない時が果たしてあるのかどうかすら疑問に思う。「人間は社会的な生き物である」という言葉は、「社会的」というところより、「生き物である」の方に重点があるんじゃないだろうか。カメレオンや、木の葉に見事に化ける虫たちとか、擬態・偽装。これはとても自然なことなのに、人は皆「本当の自分」を探そうとする。うまく言えないけど、本当の自分とidentityは別の問題だ。「自分探し」―使いふるされたこの言葉の救世主として表れたのは、「結局本当の自分なんてどこにもいない」。答えのない問いに答えを出そうとすると、こんな風に陳腐な一応の回答がなされる。

自己と他者の関係で言えば、他者の「視線」は自己を規定しているわけで、見られている自分と、自分が思う自分の間にできた溝にひとは苦しむのだろう。この「思う」というところが非常に重要で、一体どこまで主観や自我の範疇を認めるのかについて、西洋哲学は長い間論じてきた。だけど、Hannah Arendtの「忘却の穴」のように、人間存在の自我による継続的な証明は脆いものでしかない。明日学校に行って、友達に話しかけてもだれも返事をしてくれない。家に帰ってきて家族に話しかけてみても、まるで無視されているかのように返事がない。自分の生きた痕跡が全て抹消され、存在した証拠が何も見出せなくなるという話―こんなとき、鏡には何が映るだろう?

世の中は、忘却の穴に満ちている。

と、猫と女の話に戻ると、女の子が猫だろうと犬だろうと、全然構わないということ。人間の「ふり」なり「演戯」なり、それが「偽装」と呼ばれるものであるかどうかは問題でなくて、楽しくて朗らかでいられるのなら何だっていい。朗らかさに満たされたバランスと揺らぎ―人生にはこれが欠かせない。やりすぎたと思ったら、戻ればいい。物足りないと思ったら、足せばいい。だから、今日も私は思い切り豪華に偽装する。
スポンサーサイト
| 未分類 | 15:06 | トラックバック:0コメント:0
コメント
コメントする













管理者にだけ表示を許可する

この記事のトラックバックURL
http://espilce.blog17.fc2.com/tb.php/3-a803d5d9
トラックバック
| ホーム |

04 | 2017/05 | 06
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31 - - -
PROFILE

☆
☆Author: 久美子
生まれ変わるなら、星か鳥になりたいと思う。
地上に「愛」が存在するならば、すべてを愛し、すべてに愛されたい。
命の灯をともして、日食の闇に、うごめく。



RECOMMEND
  • SELECTED ENTRIES
  • (12/07)
  • (11/19)
  • (07/19)
  • (06/23)
  • (05/27)
  • CATEGORIES
    ARCHIVES
    RECENT COMMENTS
  • TAKK (03/23)
  • TAKK (07/04)
  • kumy (06/09)
  • TAKK (06/08)
  • ash (02/14)
  • (01/01)
  • kumiko (12/07)
  • RECENT TRACKBACK
    LINKS
    上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。